権現山

2000年3月19日、単独

コースタイム
5:00新潟発=6:10中川原橋着6:27発−8:03鞍部着8:11発−9:
00山頂着9:20発−9:38鞍部通過−10:20中川原橋着=さくらんど温泉
=13:00新潟着

阿賀野川の支流早出川の上流を取り囲む山塊を川内(かわち)山塊と呼ぶ、名前のいわ
れは現在村松町に合併されているが、旧川内村の村域を中心とする山塊だから川内山
塊と呼ぶのだろう。
谷が深く抉られているので標高の割には険しい山々が多い。
権現山はこの山塊の北西端にある山で里に近いためか登山道の整備されている山であ
る。
新潟市から眺めると背後の山と重なってはっきりとこの山を見ることが出来ない。時
折、気象条件が整って山がはっきりと見える日に限ってうっすらと浮かび上がる山で
ある。
当然山に登る前からこの山の存在が気になっていた。
早朝5時に自宅を出た。
この日は父の所属する会が権現山に登るという情報を得ており、団体に撒き込まれな
いうちに登ってしまおうと早々と出かけた。
登山口の中川原の部落に着いたが登山口に駐車スペースが無い、人の家の玄関先に車
を置くわけにいかず、中川原橋の対岸に車を止めた。
丁度そこには忠犬タマ公のいわれが書かれた看板が有った。このタマ公の銅像は新潟
駅構内や新潟の白山公園にもある。雪崩に埋まった主人の捜索を助けた犬として言い
伝えられている。
快晴の青空の下歩きはじめた。
中川原の部落には権現山の登山口を表す道標がありそれに導かれて歩きはじめたが、
間違って竹薮に突っ込んでしまい早くも道を見失いかけた。地図を見て登山道に戻
る。部落の背後には地図に載っていない池が有った。
登りはじめは杉の林だ。薄く雪が積もっておりトレースが伸びていた。
沢沿いに歩く部分が有り徒渉箇所に目印のオレンジ布をつけた。
沢から離れると緩やかに登り、雪の無い所で道に迷い掛けたが地形図で現在地を確認
して地図の破線通りに登っていったらすぐにトレースに合流した。
杉の林を抜けるとトレースは引き返していた。山登りの人のものでなかったのか。
雪は硬く締まっていたがずぼずぼもぐるのでわかんを装着した。
トレースはないが目前に459mピークがあり地図の破線はそのピークを目指して
登っている。取りあえずピークに向かって登っていった。
459mピークが近ずくと進行左手に広い窪地が広がっていた。ピーク経由を止めて
窪地を歩き400mの鞍部に出ようと進路を変えた。
鞍部に出る所は急な斜面で登るのにてこずった。
鞍部からは尾根歩きになる。白山や粟ケ岳、毛石山、菅名山塊の山などが手に取るよ
うに見える。
途中から痩せ尾根になった。標高が低いためか雪庇は出来ていなかった。
標高が上がるにつれ川内山塊の主役の山々が見え始めてきた。
権現山の山頂は杉の木立に囲まれた所だった。小さな祠がかろうじて屋根だけ雪の上
に見せていた。
木々の間からマンダロク山、日倉山、日本平山、御神楽岳、笠倉山、木六山、銀次郎
山、銀太郎山、五剣谷岳は銀太郎山に重なっていたが、長い頂の一部が見えていた。
そして、青里岳、粟ケ岳、毛石山、白山と川内の山々が見渡せた。
ただ杉の木が展望を遮っていたので、少し戻って痩せ尾根の部分で展望を楽しむこと
にした。
気温が高くて遠くの山は霞んでいたが、飯豊連峰がうっすらと見えていた。
下山は往路を引き返した。
鞍部を降りた窪地の所で父の団体とすれ違った。みごとに初老の登山者の一行だ。2
0人くらいはいた。
みなさん口々に「あとどれくらいですか」「何合目ですか」と聞いてくる。権現山は
山頂の方角を示す道標はあるがそれ以上のものはない。
角田山や五頭山など人が多く登って合目の標識や「山頂まであと何分」と書かれた標
識のある山しか行かない団体なのだ。私のトレースが有って助かっただろう。
下りはこの団体のおかげで立派な登山道が出来てしまった。
杉林でわかんをはずして迷わずに下ってきた。
気温がどんどん上がり下山する頃はぽかぽか陽気になっていた。

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