八十里越

前編

1999年8月29日
メンバー 吉田 明弘、鈴木眞、会田健太郎

8/28
コースタイム
12:00頃新潟市の勤務先発=中之島見附IC=栃尾=入広瀬=只見=河井継之助
記念館=16:00入叶津奥の林道終点=只見=入広瀬=栃尾=18:00吉ケ平
(車中泊)

慶応4年(1868年)、越後の山野が戦場になった北越戊辰戦争に敗れた長岡藩の
軍事総督河井継之助と藩士達が、悔しさを胸に会津へ落ち延びるために越えた八十里
越を歩たくなった。
そして、インターネットでメンバーを集めたら、私を含め3人のメンバーが集まっ
た。
この日の午前中に仕事を終え、昼頃新潟市の会社を出発した。

中之島見附ICで高速を降り、栃尾を経由して会田さんとの待ち合わせ場所の只見町入
叶津の奥の林道終点に向かった。
栃尾は戊辰戦争の時、2度目の長岡城落城で負傷した継之助ら長岡藩軍が集結した場
所だ。
しかし、新潟港陥落の報などから長岡城奪還は諦めざるを得なくなり、八十里越を越
えて会津へ落ちることを決意したのである。
その時、継之助は「俺をここへ置いていけ」と周囲の人を困らせ、適の手に渡ればど
のようなことをされるか分からないので、何とか説得して担架に乗せ八十里越を目指
したと言い伝えられている。
この時の継之助の心中を思うとなんだか胸が熱くなった。

石峠を越えて上条へ抜け、入広瀬を経由して六十里越を越えた。途中、毛猛山や桧岳
が正面に見えたが、守門岳、浅草岳は雲に隠れて見えなかった。
只見町には14時半頃着いた。会田さんとの待ち合わせは17時を予定している。
とりあえず町内のスーパーで食料を買いいれ、下山後に入る予定としている只見町温
泉保養センターの場所を確認し、河井継之助記念館に向かった。

途中、見事に尖った蒲生岳を眺め、塩沢にある河井継之助記念館を訪れた。
この記念館は継之助の終焉の地に建てられている。
ここで、河井継之助の業績をあらためて確認し、長岡城の攻防戦や戦いに敗れて八十
里越を越え、この塩沢村で亡くなるまでを説明したビデオを見た。
この記念館には八十里越の航空写真が飾られてあり、翌日歩くコースを眺めることが
出来た。

16時に会田さんとの集合場所の入叶津の林道(国道289号)に着いたらすでに会
田さんは到着していた。
すぐに私の車で八十里越の出発点の吉ケ平に向かった。
会田さんは河井継之助の事はよく知らないようだったので、車中で簡単に講義をし
た。

18時に吉ケ平に着いた。
ここは、かつては八十里越の宿場町として栄えたところだが、現在は廃村になってい
る。
河井継之助はここでも「俺を置いていけ」と周囲の人を困らせたそうだ。
かつての小学校が吉ケ平山荘として季節営業されていたが、今年は営業されておら
ず。
中や周囲は荒れ放題になっていた。
私たちは荒れた山荘には近ずきたくなく、林道上に車とテントに分かれて就寝した。
ただし、私は車で寝たのだが、多くの蚊や蚋や蛾達を車の中に招き入れてしまい、虫
除けを皮膚に塗ったにもかかわらず、彼らのために皮膚が露出しているところはいた
るところ刺されてしまった。虫達にとっては至福の夜だっただろう。
鈴木さんは21時半頃、吉ケ平に到着したそうだが、その頃の私は完全に夢の中だっ
た。

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