あの時を振り返る
〜感謝の気持ちを込めて〜

2005年11月12日記

 平成8年4月8日。
 株式会社Yは新潟地方裁判所に和議(今でいう民事再生法)を申請して、事実上倒産した。 
 父が代表取締役を務めていた会社である。私は営業部長職にあった。当時33歳。
 倒産の理由は様々なことが折り重なった結果であるが、一言で言うなら時代の波に適応できなかった結果と言える。
 
 この時より3年前、社長である父は銀行に融資の話をしにいったとき、銀行から警戒感を持たれていることを告げられた。気の小さい父はこのことだけで銀行に行けなくなってしまった。父に代わり私が銀行交渉にあたることになり、父は私に実印まで預けた。私は大学時代経営学を専攻していたが、ろくに勉強はしたことがない。独学で経理を学び銀行が欲しがる経営計画、資金繰り計画を作成し、足しげく銀行に通い融資を続けてもらっていた。経理の大切さはこの時実感し、この経験が7年後の再起に役立つ事になるとはもちろん思っていなかった。
 しかし、息子が金のやりくりをすることになり経営状態の現実を見なくなってしまった社長の判断力は落ちざるを得ない。私の忠告を無視した経営を続け、前年の秋にはいつ倒産してもおかしくない状況になっていた。
 倒産前月の3月10日の手形はやっと落とした。そして、その翌日父に「来月の手形は落とせそうにない、倒産するしかない」と報告した。
 父は息子が仕事のやる気をなくしている程度しか思わなかったかもしれない。
 
 その翌日父は親友であり新潟を代表する産物のメーカーの社長であるK氏のところに相談に行こうと言い出した。私は「どこまで打ち明けて相談すればいいのか?」と問うと「全てを話せばいい」と言ったので1月末の月次決算書を携えてK氏の所へ親子で訪れた。
 K氏へは父から「息子がやる気をなくしているので何とかして欲しい」と言われていたようで、やる気を起こすための話を延々としていた。ひととおり話が終わった後、私は持ってきた書類を出した。
 K氏はそれを見るなり「相当な債務超過だな・・・・・」と即座に会社の状況を見抜き、K氏の会社に銀行からの出向役員S氏を紹介してくれ、その方に相談するように手はずを整えてくれた。
 S氏からはアドバイスを受けたが、この時既に経営指標の読み方は体に染み付くくらい私は理解していたので、S氏のアドバイスは私の見方と一緒で倒産は回避できないという内容のものだった。
 もちろんその間も毎日のように銀行に通い、新たな融資の交渉を続けていた。

 倒産が回避できない事が確定した後はK氏は弁護士を紹介してくれた。そして、弁護士の所に相談に行くときはほとんどK氏が同席してくれた。
 倒産にむけての準備が始まったのは3月の月末だったと思う。
 私は「お世話になった銀行の支店長にも相談したい」と言ったら弁護士もK氏も反対した。「銀行はいざとなったら冷たいものだ」と言う。でも、私の心の中では黙って裁判所に行くよりも銀行の同意を得たいという気持ちがあり、周囲の反対を押し切って4月3日頃だったと思うが銀行の支店長の基を訪れた。
 話の内容は4月10日の手形が落とせないこと、それでも事業を続けたいことを心から訴え、倒産は回避できないかもしれないが、必ず再起する約束をし、これまでは融資を続けてくれたことに対してお礼を言った。
 私にとって幸運だったのは当時の支店長のT氏が人間味のある方だったことだった。銀行内の自分の立場だけしか考えない人だったら後の支援はなかっただろう。この時の言葉は今でも心に残っている。
「吉田君、君はまだ若いから必ずやり直せるよ、一旦ここは会社を整理して再スタートを考えよう。」
 

 そして、4月8日。裁判所に出向き和議を申請した。負債総額は5億円。
 和議とは会社を再建するための方法だが、債権者への債務額で3分の1以上の反対があると和議は成立しない。

 裁判所から帰って来て社員を一堂に集め事実上の倒産状態になったことをつげ、2か月分の給与をその場で渡した。
 その晩から父は大口の債権者に挨拶に回るべく1週間の予定で出張に出てもらった。しかし、挨拶に回るのは口実で、気の小さい父が社長として特定の債権者とできもしない約束をすると悪いと思い、不在になってもらったのだ。
 ここで誤算があった。その晩から全ての債権者にFAXでこの事実を通知し始めたのだが、その翌日の朝刊2誌に我が社の倒産の記事が載ってしまったのだ。
 朝から会社は大混乱になった。
 私は「仕入先や業者の対応は全て私がやる。お客様の対応は営業の方で行ってもらいます。」と指示を出した、来社した債権者は待ってもらっても全員に私が頭を下げてわび、支払は出来ない事と、半年後に4割支払うことなどを説明して約束した。債権者から来た電話に対しては必ず折り返し電話をし、同様の説明をした。
 財産は裁判所から保全命令が出ている。どさくさにまぎれて商品や備品を持ち出されないよう倉庫の扉は閉め施錠した。
 でも、債権者の方もみな長年付き合っている方々だ。これまではただの一度も支払が遅れたことはない。私の心からのお詫びの言葉と態度を見てみなそのまま帰って行った。債権者は150社以上あった。
 もちろん、ここぞとばかりに罵声を浴びせる人もいた。こういう人は普段から強い立場の人にはぺこぺこするくせに、弱い立場の人には威張る人だと思う。
 しかし、一方で励ましの言葉を下さる方もいた。ぎりぎりの精神状態にいる私はこの言葉に胸が熱くなった。長野県のN産業社と岐阜県のN漆器社の社長さんからは暖かい言葉を戴いた。N産業さんは今でも取引が続いている。
 冷たいはずの銀行も応援してくれた。
 会社名義の口座は規則上凍結してしまったが、和議申請後の入金に限り、別名義の口座に振り替えて自由に出し入れできるようにしてくれたのだ。支店長の破格の好意といっていい。私が倒産前寸暇も惜しんで金作に回っていたこと、事前に支店長に相談に伺ったことなどと私のバカ正直な性格を信用しての好意だといってくれた。
 半年後に4割支払う約束をしていた私にとってはとてもありがたいことだった。(通常の場合はこのようなことはありませんのでご承知おきください)

 1ヶ月経った。数名を除いて社員は会社を去った。ただ会社の整理をするだけの業務のために残った社員には感謝の気持ちで一杯だ。
 私は大口債権者に和議の同意を得るべく出張に出た。銀行を除き最大の債権者は大阪のG社だ。この1社だけで銀行以外の債務の3分の1以上ある。
 社長の代わりにN常務が応対してくれた。
 大阪は今も昔も商都だ。ビジネスはビジネスとして割り切る考えを持っている。
 和議の条件は半年後に4割を支払、残り2割は10年の割賦払い、そして、残りは放棄というものだった。
 私は「何とか商売を続けたい、この条件を飲んでください」といったが、答えは「NO」だった。
 「4割の支払はありがたくいただく、しかし、残りの2割といったって吉田君に支払えるわけがない、出来ないことを約束しないことだ。債務関係の無い別会社で再スタートを切った方がいい」と意見だった。
 この人も会社人としての立場より、私個人の将来を心配してくれた。もちろん一般債権者への債務は1億5千万ほどあり2割といっても3千万になる。その2割に銀行の借金3億5千万が加われば、一個人としては支払不能の金額になる。そのことを心配してくれたのだ。
 当時は意外な返事に困惑したが、この人とも10年の付き合い、年に何回かは泊りで大阪に出かけたが、よく飲みに連れて行ってもらった仲だ。
 その後、名古屋などの大口債権者に挨拶に回ったが、和議に同意してくれる会社はなかった。
 新潟に帰って弁護士と相談してすぐに和議を取り下げ、会社は私的整理で整理することになった。

 会社が倒産したとはいえ、商売は続けたい。この意思をK氏に伝えると、K氏の会社の子会社で一部門を設けてもらい、そこで事業を続けてもらうことになった。
 5月下旬の債権者会議でそのことが決し、私は債権者委員長の大阪のG社のN常務とともにK氏の基を訪れ、その会社にお世話になることに決まったことを報告した。
 会社の社屋も売れ、8月末に引渡しとなった。こちらの思い通りの金額で売れたので一安心した。9月からK氏の基の子会社で新しいスタートを切った。(しかし、5年後にやむを得ず退社した)
 そして、9月中旬には約束どおり全債権者に4割の支払を済ませ、残金は銀行の返済に充てた。
 持っていた資産の売却もこちらの思い通りの値段以上で売れ、自宅以外の資産で銀行の返済の大半を済ませ、残った金額は月々払えるだけの金額を毎月入れていけば自宅は競売に掛けないということになった。
 多額の債務者と言うことで銀行などの金融機関のブラックリストに載る生活には多少不自由なものはあるが、倒産した会社の経営者家族は個人破産を余儀なくされるのが当たり前の世の中で、破産せずに暮らしていけるのは当時支援してくださったK氏はじめK社のS氏、銀行のT支店長、G社のN常務など自らの立場を省みずに手を差し伸べてくださった人たちのおかげだ。振り返ると感謝の思いで胸が熱くなるほどだ。
 また、多くの友人から励ましの言葉や手紙を貰った。新潟という土地柄、倒産した会社の経営者はまるで犯罪者を見るような目で見るところがある。でも、友はどん底の私を応援してくれた。ありがたい。
 独立起業した現在も多くの友達に支えられている。

 この当時の記録は保管すべきなのだが、もういいだろうと数年前に処分した。辛い思い出なので二度と見たくない書類だったのだ。しかし、まもなく10年が経とうとしている現在、文書を残したいと思い、私の個人のサイトにこのような文章を掲載した次第です。
 だが応援してくださった皆様にまだ恩返しが出来ていない。
 恩返しとは必ず会社を設立して見事に立ち直った私を見てもらうことが恩返しだと思っている。
 10年前の約束が「必ず再起して見せます」ということだったのだから。

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