あの時を振り返るA
〜思い出の二王子岳〜
2005年11月13日記
会社が倒産して1年が経過した。
前年9月に就職した会社ではいろいろあったが仕事はおおむね順調だった。
しかし、父は会社が倒産したことがよほど悔しかったのだろう。イライラが募りその矛先は私に向けられていた。私はたまらず、母や兄弟の勧めもあり、勿論父の同意を得て、豊栄にアパートを借りて一人暮らしを始めた。
しかし、生活は困窮した。
当時はまだ資産の売却途上にあったため倒産した会社の借金を現金で返すところには至っていなかったが、自宅の住宅ローンが3分の1になった給料には負担が重く、その上アパートの家賃までが加わったため、ローンの返済額とアパートの家賃で給料の大半がなくなるという状態になり、わずかなボーナスを月々に配分して生活するという状況になっていた。後に会社に嘱託として来ていた父の給料を上げてもらい、住宅ローンの返済は父が担当することになって落ち着いたが、当時はこういう状況だったのだ。
でも、貧乏でもそれなりに楽しかった。学生時代以来の一人暮らしは自由で気ままだった。
6月になり、自宅以外の土地の売却が一気に進んだ。保証協会以外の銀行の返済が終わり、私個人の銀行口座の差し押さえが取れた。倒産後解約した保険の解約払戻金が口座に入っており、そのうち7割は借金の返済に充てたが、3割は手元に残していた。
そんな時、友人のY君から電話があった。
「二王子岳に登らないか」
Y君とはあるサークルで知り合って仲良くなり、お互いの家を頻繁に行き来するよき友人だった。
倒産の整理も進み日曜が休めるようになった上、手元に山の道具を買う資金もある。それよりも、疎遠になっていた私を山に誘ってくれた友の誘いが嬉しく、私は二つ返事で承知した。
今では山にのめりこんでいる私だが、当時はまだ新潟から見える山の名前さえもろくにわからない状態で、ただ、父が山が好きで少年時代によく父に連れられて山に行ったくらいの経験だった。
Y君の家で準備会をやった。メンバーは私とY君のほかにS君も来ていた。
テントを張る練習をして、二万五千図を見て二王子岳の登山道の説明をY君から聞いた。
体力に自信のある私はかなりたかをくくっていたと思う。
土曜日の昼頃、Y君の車で登山口に向かった。
二王子神社に車を置き歩き始めたが、Y君は我々に先に行けという。私とS君二人で歩き始めた。
当時のスタイルは綿のTシャツにGパン、靴はバスケットシューズ。山を完全に知らない出で立ちだ。おまけにテントを担ぎ、夜の楽しみに焼肉と大量の酒類をザックに入れている。雨具すら持っていない。
歩き始めてすぐにばて始めた。10分歩いては座り込むというていたらくだ。
一王子でゆっくり休んだ。我々はY君は一王子で追い越していったと思い込んだ。
ところが、私はこのあたりから調子が出てきた。S君は相変わらずばてばてで少し歩いては座り込んでいる。
7合目まで来たときに、「俺、先に行ってまた迎えに来るさ」と言い残して先に山頂に向かった。
山頂にいると思ったY君はいなかった。まず私のザックを起き、S君を迎えに下った。S君は油こぼし付近の登山道で倒れていた。完全にばてている。私は彼のザックを背負い山頂に向かって歩き始めた。S君も遅れながらも山頂に着いた。Y君が来たのはその後のことだった。
まず感動したのは目の前の飯豊連峰だ。飯豊の名前は知っていたが、山登りをしていなかった私は新潟から良く見える飯豊連峰のことさえも知らなかった。
雄大な景観にしばらく見とれた。飯豊だけでなく、この日は朝日や鳥海まで見えていた。
山頂にテントを張り楽しい宴となった。飲み物食べ物はどっさりある。久しぶりに楽しい夜だった。
翌朝は夜明け前に起きてご来光を見た。
すぐに私は山登りを始める決心をした。
「今度は飯豊に登ろう」
Y君に提案した。
S君は「俺角田でいいや」と言っていた。
Y君は「吉田君とは飯豊に登って、S君とは角田に登ろう」などと言っていたと思う。
この翌週に焼峰山に登って、登山を続ける意思が変らないと思った私は、貯金をはたいて山道具を買い揃えた。
当世流行の占いではこの年は大殺界の最初の年、確かに振り返ると辛い日々が続いていたが、山と出会えたことにより気分転換が上手に出来た年でもあった。
山と出会えるきっかけを作ってくれたY君には改めて感謝の意を表したい。