朝日山にて

                                                                                 2003年11月2日記

 小千谷市の東側の丘陵地の一角に「朝日山」はある。
 2003年10月13日、私はここを訪れた。
 山頂にはコンクリート製の展望台があり、その展望台の1階には戊辰戦争の史料が展示してある。晴れた日はここから周囲の山々が見渡せ、眼下には蛇行して流れる信濃川や小千谷の町などを見おろすことができる。しかし、私が訪れたときはあいにくの濃い霧がかかっており、周囲の展望は得られなかった。
 ここは、北越戊辰戦争の激戦地だった。
 

戊辰の情勢

 幕末、中国を半植民地化することに成功した欧米列強はその触手を日本に伸ばそうとしていた。幕府はその力に屈し、長年続けてきた鎖国体制に終止符を打ち、屈辱的な不平等条約を列強諸国と結ぶことによって開国に踏み切った。。
 それをよしとせぬ勢力は各地で攘夷運動を展開した。そして、旧態依然とした幕藩体制では事に対応できず、幕府は倒れ薩長が中心となって新しく天皇中心の国家体制が生まれた。いわゆる明治維新である。
 
 いつの時代も革命勢力は古い体制の中心を血祭りに上げようとする。
 明治維新では古い体制の中心はもろん徳川将軍であり江戸幕府であった。
 武力倒幕の兵を挙げようとしたときに、徳川最後の将軍慶喜は朝廷に政権を返上(大政奉還)。その後、薩長が中心となって王政復古の大号令が発せられ、ついに京都郊外鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争がはじまったとき、将軍慶喜は駿府(静岡)に自ら蟄居し、江戸城は勝海舟と西郷隆盛の会談で無血開城され、革命を成功した薩長中心の官軍は血祭りに上げるべき対象を失ってしまったのだ。
 革命勢力はどうしても血祭りにする対象が欲しかった。そこで標的になったのが会津藩であった。
 会津藩は幕末京都守護職として京都の町の治安を維持するために努力をしていた。会津藩が赴任前の京都は、「天誅」と称して浪士たちが殺戮を繰り返し治安は悪化していた。従来の幕府の警察である京都所司代だけでは対応できず、強力な武力で街を治める必要があったのだ。そこで幕府は将軍に忠実であることを藩是としている会津藩を京都守護職として駐留させたのである。
 革命勢力の中心だった長州藩は京都で宮廷工作をしていた。しかし、御所に攻撃を仕掛けた罪で(蛤御門の変)朝敵とされていた。京の街の治安を預かる会津藩は配下に新選組を従えて、長州藩系の志士を取り締まった。
 ところが時代が逆転して幕府が崩壊し、朝敵だったはずの長州藩は新政府の中心勢力になり、かつて多くの仲間を弾圧された会津藩を仇敵視するようになり、逆に会津藩に朝敵の汚名を着せてしまった。
 革命勢力は血祭りが欲しい。そこで、京都の治安維持のために努力した会津藩を幕府の変わりにたたくことになったのである。
 だが、会津藩は元来政治に疎い性格の藩で、親藩であるがゆえに幕府の政治にもかかわったことはない。おまけに、東北の内陸に位置し、攘夷騒ぎから程遠い所にあるのである。それでも、崩壊寸前の幕府より京都守護職に指名されたときは先の運命を予感して藩主藩士ともども泣いたという。でも、藩祖の教えに将軍の命令には絶対服従ということがあり、京都守護職を引き受けざるを得なかったのだ。
 会津藩はただ素直にに将軍の指示に従って京都の治安を維持するという使命を全うしただけだったのである。
 朴訥な東北の藩は新しい時代の生贄にされようとしていた。

 会津藩と藩境を接している越後諸藩は苦しい立場にあった。
 時代は幕府が崩壊して薩長が中心となって京都にはすでに新しい政府が樹立されている。新政府につくことは簡単だが、そうすれば近くの友の会津藩を敵に回すことになる。会津側につけば、新政府から攻撃される。会津から遠い高田藩などは早くから新政府側についていたが、会津寄りの諸藩は態度を決めかねていた。
 この事態の鍵を握る存在が、河井継之助の登場で藩政改革に成功し、洋式軍備まで整えるまでに至った長岡藩であった。
 河井継之助は元来家老の家柄ではなかったが、強い使命感から藩主に建白し、自ら藩政を担当し、破綻状態にあった藩財政を立て直し時代を先取りしたさまざまな改革を実現していったのだ。

 この頃、仙台藩を中心に東北諸藩は会津への同情から奥羽列藩同盟を作って新政府と対抗していた。新政府に従わなかった幕府海軍もこの時仙台にいた。
 当然、仙台藩は長岡藩にも列藩同盟への加盟を求めていたが、長岡藩はこの時点では加盟を断っている。

 長岡へ

 雨の降る休日だった。私は河井継之助の邸宅の跡地を見るために長岡へ向かった。
 道中継之助のことに思いをはせた。商工業者にも匹敵するくらいの合理的な考え方を持った継之助が、最後は藩にこだわり武士であることにこだわった。戊辰の戦いで仮に勝ったとしても得るものは何もない。まして、時代の勢いに乗った官軍に勝てるわけもない。
 それなのになぜ戦わざるを得なかったのか、そして、長岡を中心とする越後勢力は良く戦った。何も得られるものがないのにである。
 古今の戦争の多くは権力者の欲と欲のぶつかりあいである。しかし、戊辰の戦いは様子が違う、我が先祖達は自ら信じる正義だけのために戦ったのだ。
 
 河井邸跡は長岡の中心部の一角にある。いまでは石碑が残るのみとなっている。
 ここに昔松の大木が二本立っていて、まるで竜のようだったとか。継之助の号「蒼竜窟」はその松からとったそうだ。今でも松の木はあるが、幹が細く、おそらく継之助が愛した松ではないだろう。長岡の町は太平洋戦争時に米軍により空襲を受けている。

長岡の河井継之助邸跡

 慈眼寺

 河井継之助は事態収拾にある奇策を胸に秘めていた。それは、長岡藩の武力を背景に官軍と会津藩の間を仲裁しようというものであった。ただ、奇策がゆえに早く行動に出てはうまくいかない。世の中の情勢はは官軍に従うか否かの答えを求めている。
 官軍は高田まで進行したとき、越後諸藩を召集して態度を確認した。長岡藩はこの時態度を保留している。
 官軍は旧京都所司代であった桑名藩が占拠していた柏崎を解放し、山道軍は小千谷まで進軍し長岡藩境に迫った。長岡藩は現在の長岡市の市域のうち、信濃川の東側部分が藩領だった。
 官軍の本営は平定したばかりの柏崎と小千谷に置かれていた。長岡は目前である。
 そして、継之助は動いた。
 官軍と会津藩との事を平和裏に解決すべく、継之助はその旨を書いた嘆願書をふところにして、小千谷の官軍の本営に向かったのだ。
 継之助は軍勢を率いず、わずかな供回りだけをつれて小千谷に赴いた。会談の場所は街中にある慈眼寺に設定された。
 官軍側の代表は軍監岩村精一郎。この時若干24歳(数え年)である。ちなみに河井継之助は42歳。
 岩村という男は、鳥羽伏見の戦いの直前に土佐藩を脱藩し、鳥羽伏見の戦いで同郷の坂本竜馬を探していたところ官軍に拾われた。それだけの経歴しかない。勿論坂本竜馬は鳥羽伏見の戦いの1ヶ月半ほど前に京都で暗殺されている。岩村はそのことさえ知らずに戦場をうろついていたのだ。官軍は人材に乏しかったため、戦も知らないこの若者に一小隊を預け進軍させていたのである。
 この方面の参謀司令官を勤めている長州の山県狂介や薩摩の黒田了介はこの時柏崎にいた。
 継之助は岩村に長岡の考えを説いた。しかし、血気にはやる岩村は嘆願を一蹴しその場を去ってしまった。会談は30分としていなかったという。岩村にはそれまで制圧してきた小藩と長岡藩との違いを見抜いておらず、継之助のことも小藩のバカ家老程度にしか見ていなかったに違いない。官軍がそれまで進軍してきた中で各藩に求めた答えは、官軍に服従するか否かだけで、長岡のように中立というものはなかったのだ。
 継之助はなおも門前に留まり、他藩の藩士を介してもう一度会談をして欲しいと申し入れた。翌朝まで何度も何度も申し入れたが、結局岩村は再度会おうとはしなかった。
 継之助は無念にもその場を去るしかなかった。
 柏崎の本営に継之助が小千谷を訪れたことが伝わったのは夜も更けてからのことであり、その報告を聞いた山県はすぐ「河井を捕らえよ」と命を下している。山県は継之助に関する情報を得ており、継之助を人質に取っておけば、戦わずとも長岡は降伏すると判断したのだ。しかし、山県の伝令が小千谷に届いたときには、既に継之助は帰った後だった。
 また、黒田了介は柏崎を平定した後、継之助に向けて戦わずに話し合おうと手紙を出したと後に語っている。しかし、この手紙が届く前に戦は始まってしまった。黒田は後に函館戦争のとき、榎本を助命している。この事から考えるに黒田も官軍と長岡との戦いには反対だったようだ。彼は長岡戦の間中、病気と称して小千谷の本営にこもったまま動かなかった。
 もしこの小千谷の会談に山県か黒田が応対していれば、また、岩村が独自の判断をせずに、嘆願書を持って柏崎の本営に伺いを立てていれば、事態は違った方向に動いていただろう。山県も黒田も明治になり、総理大臣になった人物だ。
 歴史は時に一人の無知で尊大な若者に重大な判断を求めてしまう。
 後に明治と改元される年慶応4年の5月2日の事であった。

慈眼寺の山門

小千谷へ

 長岡を出た私は次にこの慈眼寺を訪れた。
 慈眼寺は今も小千谷の街中に当時とさほど変わらない状態で建っている。
 入口には立派な山門があり、その前に岩村精一郎と河井継之助会談の地を示した看板もある。境内には幼稚園があり、子供の遊戯具が置かれている。会談の場所は今でも当時のままに保存されているそうだが、私は境内を見回しただけでその日はその場を辞した。
 その後、激戦の地、朝日山に向かった。
 小千谷市内には朝日山への道標があちこちに掲げてある。その道標に導かれるままに車を走らせた。
 信濃川右岸の浦柄という集落より山に入る。
 集落のはずれには神社があり、その境内に東軍兵士の墓があった。一旦車を降り墓前に手を合わせた。
 道路は簡易舗装で傾斜がきつく、大きなエンジン音を上げながら車は登って行った。

朝日山そして、北越戊辰の戦い

 慈眼寺での会談決裂後の継之助の行動は早かった。
 会談翌日、摂田屋の本営に戻るとすぐ藩論を統一し、官軍への徹底抗戦を決めた。そして、その翌日には奥羽列藩同盟に加盟(この時より奥羽越列藩同盟と名称を変更)、藩外にいた会津、桑名の兵士達を藩内に招き入れた。村上藩、村松藩なども行動を共にした。新発田藩も奥羽越列藩同盟に加盟するが、新発田藩は元来勤王藩であるが、会津藩や長岡藩と藩境を接している関係上やむなく加盟したに過ぎない。
 そして、態勢を整えるや、すぐさま藩境にある榎峠を奪取すべく行動を開始した。
 榎峠を守る官軍は同盟軍(以下東軍と記す)の軍勢を見るや戦わずして退却した。この陣を守る官軍は薩長らの兵士ではなく、やむなく軍に加わった官軍に降伏したばかりの藩の兵士であり、もともと戦意はなかったのだ。
 榎峠の奪取に成功した東軍はすぐさま朝日山の攻撃に移り、こちらもやすやすと奪い返すことに成功している。
 榎峠で銃声が始まった頃、小千谷の本営では若き軍監岩村精一郎はのんびりと朝食を摂っていたと伝えられている。それも、膳に乗せて土地の女に給仕までさせていたそうだ。さながら現代の温泉旅行の朝食である。
 そこへ柏崎より司令官の山県狂介がやってきて、銃声が聞こえる中でのんびり朝食を摂っている岩村を一括、膳を蹴り上げたという。
 岩村という若者はそれだけの人間でしかなかった。会談決裂後、信濃川を挟んでの戦いになるのは地形を見れば明らかなのである、にもかかわらず、舟の用意さえもしていなかったのだ。戦のことが何も分からないまま軍監になっているのだ。
 開戦の3日後、官軍は濃霧に乗じて朝日山に総攻撃を加える。
 この時の戦闘はすさまじく、両軍多数の死者が出た。特に、この時の官軍の司令官である長州奇兵隊の時山直八までもが戦死するというすさまじいものであった。官軍兵士はその時山の遺体を引き上げることができず、やむなく首を切って持ち帰ったという。
 官軍は敗退し、長岡を中心とする東軍は朝日山を守りきった。
 しかし、梅雨時の増水した信濃川を渡河するという奇襲作戦をとった官軍の前に長岡城は落城、東軍は森立峠を越えて栃尾に敗走した。朝日山を守る軍勢も間道を通って栃尾に退却。その後、加茂まで退却する。
 信濃川渡河作戦は東軍側も考えていた。増水した信濃川を渡るなど相手側は考えも及ぶまい、そこで、その虚を突いて信濃川を渡河して一気に小千谷と柏崎の本営を突く。 しかし、官軍側の行動が1日早く、東軍は油断していたところを突かれた形となった。
 加茂で態勢を立て直した東軍は今町で官軍と激突、激戦の末今町を奪い返すことに成功する。そして、見附、栃尾も回復。官軍が今にも見附、栃尾に総攻撃を掛けようと軍勢を向けた隙に、長岡東北部の八丁沖という沼地を夜陰にまぎれて行軍するという奇襲作戦を敢行して、長岡城を奪い返すことに成功した。
 官軍側のあわてようはすさまじく、山県は着の身着のままで城を脱して小千谷へ逃走。多くの官軍兵士は武器弾薬を城内に残したまま逃げ去るという体たらくであった。
 長岡城を奪い返したのは7月25日の事であった。
 しかし、4日後の7月29日に総攻撃を仕掛けてきた官軍を防ぐことができず、長岡城は再び落城。この時、継之助は足に銃弾を受けてしまう。同じ日に新発田藩の手引きで太夫浜(現新潟市)に官軍の増援部隊が上陸。新潟港が陥落した。
 指揮官の負傷、新発田藩の裏切り、要衝新潟港の陥落。東軍の士気は一気に衰えた。
 そして、継之助は担架に乗せられて会津に落ち延びるべく八十里越を越えていった。しかし、塩沢村(現只見町)で足の負傷がもとで息を引き取った。8月16日の事であった。
 官軍は着々と会津に向けて進軍した。東軍は会津若松の鶴ケ城に篭城して抵抗するが、9月22日、明治と改元され直後、会津藩は降伏した。
 そして、10月6日、長岡藩も降伏した。

 長岡や会津の兵士達は、自ら信じる義と美のために戦い命を落とした。しかし、新政府から彼らは賊軍として扱われ、朝日山などの激戦地に残された東軍の遺骸は埋葬をも禁じられた。
 明治になって十数年が経ち、その罪も許された後、朝日山の麓の浦柄の人たちが山中に放置してあった東軍兵士の骨を拾い、集落のはずれにある浦柄神社の境内に葬った。
 そして今も浦柄の人たちは歴史保存会を作り、朝日山の展望台に史料を展示して当時の様子を今に伝えている。

 北越の地に悲惨な戦争のきっかけを作った岩村精一郎は、後に男爵を授けられている。
 勝てば官軍、負ければ賊軍。そして、歴史は勝者の歴史なのであろうか。

浦柄神社境内にある東軍兵士の墓

参考文献 「河井継之助のすべて」安藤英男編、新人物往来社 他

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