新潟県中越大震災

〜地震に関する私の記録〜

2004年12月26日記

 平成16年10月23日午後5時56分、新潟県中越地方を大きな地震が襲った。
 私はその日夕方まで仕事をし、仕事が一段落ついたところで、作業場と化している自宅のリビングに置いた椅子に腰をかけてぼんやりしていたところを襲われた。隣の台所で母は夕食の支度をしており、私はすぐに「火を消して」と声を掛け揺れが収まってから家の中を見回った。
 父は自室にいたがすぐに出てきた。私の部屋の無造作に置いた本棚の本が崩れ落ちたのと、PCのモニターが倒れていただけで家の被害は無い様だった。幸い停電もしていない。
 6時のニュースを見ようとテレビのスイッチを入れた。土曜の夕方の時間帯の地方ニュースをやっている民放をつけた。地震のニュースをくり返し伝えている間も激しい余震が何度も起こった。小千谷で震度6強というニュースが流れた。震度6強といえば被害が出ていると予想されたが、あたりは既に日が落ちていて被害の状況は画面では見られなかったが、新幹線が脱線したというニュースが私を驚かせた。
 NHKにすると地震のニュースをずっと流していた。(後日この時川口町では震度7を記録していたことが分かった。)

 翌朝テレビの映像に現れた光景は我が目を疑わんばかりの情景だった。山肌は無残にも崩れ落ち、道路は至るところで寸断していた。屋外で立ちすくむ住民達が空を見上げている。
 この日も余震は頻発した。ちょうどこの日は当店に急ぎの荷物の到着日で、午前必着とした荷物がまてど暮らせど入ってこない、両親は用事で出かけて留守番は私一人、出かけるわけに行かない。その荷物が入ってきたのは夕方遅くなってからだった。おかげで私は一日中荷物を待ちながら家にいてテレビで地震のニュースを見ていた。運送店も大混乱になっていたらしい。
 心配なのは被災地の取引先や友人たちだ、死者の名前が出るたびに知らない名前なのでほっとし、被災地の映像が出るたび、知り合いの顔はないか探していた。幸い私の友人や取引先の皆さんは全員無事だということをしばらく経ってから聞いた。

 地震の2日後の25日、私は長岡や柏崎に配達や商談の約束をしていたので、とりあえず予定通り中越へ向かった。
 新潟市の西の外れにある我が家から長岡へ行くには、シーサイドラインと呼ばれている海岸沿いの国道を寺泊町野積まで行き、そこから大河津分水の土手道を通って信濃川左岸の道を進んでいくコースを通っている。
 与板町に入る頃から土手上の道の端が崩れている箇所が現れ、そして、陥没や段差が現れ始めた。町に一軒あるコンビニは駐車場が液状化現象で泥だらけになっている。
 長岡市内に入る頃は橋のあるところは全て段差が出来、車は減速しなければならないので渋滞が始まった。途中で仕入先に連絡を取らねばならない用事が出来、携帯で電話を掛けるが通じず、近くのコンビニによって公衆電話で掛けようとしたが、回線が混んでいてつながらない状態になっていた。午前9時頃だったと思う。1時間ほどして長岡市内の公衆電話から掛けたら通じたが、会社の業務が始まる時間帯で新潟県内の電話回線が一時的にパニックになっていたのだろう。
 この時既に長岡市市街地の停電は復旧しており、信号は問題なく作動していた。しかし、市街地は月曜なのに車の通りは少なく、道路はすいていたのを覚えている。
 長岡市内の取引先に荷物を届けた。問題なく業務をこなしている様子だったが、従業員の家はみな大変らしい。
 長岡から柏崎へ向かった。暮れの景品の商談予定が入っていて約束どおり向かったのだ。8号線を西へ走る。大手スーパーが駐車場にワゴンをだして営業していたが、ほとんどの店が休んでいた。
 市境の曽地峠に近づくと道路わきの家の屋根が崩れ落ちているのが目立つようになった。そして、道路損壊のための片交区間があり、この辺りの揺れがひどかったのが良く分かった。
 柏崎市内は所々道路に小さい段差がある程度で大した被害は無いようだった。
 柏崎の取引先に入ると、担当者が長岡から通っている方らしく被災されて出勤してこないということが分かった。代理の方と話をしたが、担当者からの引継ぎは当然のことながらなされておらず、こちらからこれまでの商談の経緯を説明しなければならない状態だった。

 10月27日、この日は大きな余震があった日だ。私はその時間村上辺りで運転中だった。つけっぱなしのラジオから番組を中断して地震の情報が放送された。私は全く気づかなかった。
 また、この日は土砂崩れ現場から2歳の男の子が奇跡的に救出されたというニュースが流れた日だ。
 この週の週末に納品予定で上越地方のある村から村制施行50周年の記念行事の記念品の注文を受けており、配達の段取りなどで、夕刻役場の担当者に電話を入れた。ところが、村は地震の影響は受けていないものの、村民感情を考慮して行事はとりあえず延期するとの事になっていた。担当者の「中止と決まったわけではない」という言葉を信じるしかないが、多額の記念品が納期のはっきりしない在庫となってしまった。地震のニュースはこれまで他人事のように見ているだけだったが、このことで自分自身も被災者なんだと思うようになった。
 結局、一ヶ月遅れで記念行事は行われ、代金はその前にいただけたから、金銭的な被害は被らずにすんでほっとしたが、代金戴くまでは落ち着かなかった。

 地震発生から3週間くらい経ったある日、小千谷の取引先の食品会社に見舞いに行った。まだ強い余震がたびたびあった頃だ。この会社との取引はそれほど多くはないのだが、私が独立したときに励ましの言葉を戴き、取引の額にかかわらず定期的に訪問していたお先だ。
 長岡市で国道17号線に乗り、南へ向かうと道路の損壊や周囲の建物の崩壊が目に付き始めた。国道はだんだん渋滞し始め、私は渋滞を避けるために集落の中を通る道を進んだ。
 家々は全て傾き、1階部分がつぶれてしまって家や、土台から斜めになってしまった家が目に付き、住民達の後片付けに追われている姿を目の当たりにしながら進んでいった。
 すぐ近くを通る新幹線の高架の上に脱線した車輌が横たわっているのが見える。
 妙見堰(越の大橋)を渡って小千谷市内に入る。道路のひび割れや陥没は応急的な復旧は進んでいたが、道路わきの壊れた家々は放置されたままだ。街の状況は「無残」という言葉でしか言い表せない。
 取引先の食品会社は建設するとき地震に耐えられるように作ったおかげで建物の被害は全くなかったようだ。しかし、駐車場のアスファルトにはひびが走っていた。事務所に入ると余震を警戒して社員はすぐに逃げられるように私服姿で机の上にヘルメットを置いて仕事をしていた。コンピューターに埃がかからないように、シートをかけていた。そして、書棚の書類は落ちるのを警戒してみな床の上に置いてあった。
 応接室に通されすぐに社長が出てきた。私は「これで体を温めてください」と日本酒1升を手渡した。
 1時間ほど話をした。驚いたのはこの会社は一日も休業せず、出荷できるものから出荷していたということだ。それにしても、電気も電話も通じない中でどのようにして仕事をしたのかと尋ねると「もう、しっちゃかめっちゃかさ・・・」と言ってそれから先は声を詰まらせていた。この頃社長は自宅はまだ何も片付けていないと言っていた。地震が起きたからと言って業務を休んでいてはお客様に迷惑がかかると、会社の復興を最優先して事にあたっていたらしい。
 この社長さんから後日礼状が届いた。私は何も手伝っていないが、私がお見舞に訪れたことは励みになったらしい。

 日本に住んでいる以上天災は免れない。私も40年前に新潟地震を体験している。(幼すぎて記憶にないが)また、5年前の8.4水害のときは車が水に浸かり廃車を余儀なくされた。
 しかし、地震に被災した中越地方は私の住む新潟市からは車で1時間くらいの距離だ。私の町は運がよかったとしか言いようがない。
 わずかな距離の先に通常の生活が奪われた町がある。
 早く復興して元の暮らしを取り戻して欲しいと、心より祈念申し上げる。

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