ふるさと新潟

2002年6月2日記


 新潟県新潟市。私が生まれ育ち、今も暮らしている町である。
 学生時代4年間東京に住み、6年前から3年間仕事の都合で隣の豊栄市に住んでいたが、それ以外はずっと新潟市に住んでいた。
 30歳の年までは町の中心部の本町に住んでいたが、その年に現在の五十嵐に自宅を新築して移ってきた。
 現在の自宅のあるところは海の近くの砂丘の上で、もともと松林だったところを切り開いて作った宅地ゆえ周辺に松を初めとした木が多く、それらの木に沢山の鳥たちが暮らしている。窓を開けると日本海が見え、天気のいい日は沖に浮かぶ佐渡が見える。
 越してきたばかりの頃は、隣が畑だったため海風をもろに受け、冬の風が強いときは家がよく揺れていた。今は、隣の土地に松の木が植えられ、その松が育ってきたので風で家が揺れることはなくなったが、海は2階の窓からじゃないと見えなくなった。


 以前住んでいた本町は古くからの町で、人情の厚い町だった。
 すぐ近くに、新潟の総鎮守の白山神社(白山さまと呼んでいた)があり、その境内は公園になっている。私の家の前を夏の祭りのときは祭り行列が通った。花火大会の日は、花火の打ち上げ場所の近くなので、花火大会の時間は、車両通行止めになる。
 信濃川の川端までは歩いてすぐ、耳をすますと家から船の汽笛が聞こえた。
 小学校、中学校、高校と信濃川の川岸にあった。窓を開けると川風が校舎の中に入ってきた。
 白山公園は子供の頃の良い遊び場で、冬は公園の丘の斜面や、陸上競技場の芝生席がミニスキーのいいゲレンデになっていた。白山さまの祭りが何より楽しみで、お祭りのときは必ず出かけて、ポッポ焼きを買って食べた。夏の新潟まつりにはよちよち歩きの頃からはっぴを着て参加していたようだ。小学校中学年から神輿を担いでいた。一時ブラスバンド隊に参加もしたが、成人するまで神輿を担ぎ、大学を卒業して新潟に帰ってきてからも神輿に復活した。五十嵐に引っ越してからもしばらくは神輿を担ぎに行った。(今はもう行っていない)
 

 高校の頃からか多くの仲間がそうである様に、私も東京指向が強くなってきた。周りの大人から監視されているような古い新潟の町がいやになってきた。首都圏の大学に進学したのもその気持ちの現われだった。
 大学に進学してからは、休みになるとさっさと故郷に帰る仲間を尻目に、バイトだバンドだと理由をつけて新潟になかなか帰らなかった。正月3が日くらいは新潟にいたが、冬の休みのほとんどは長野県の白馬でスキーをしていた。
 バンド活動に熱中しすぎて単位がとれず、4年で卒業できなかった年、新潟で会社を経営している父に説得されていやいや新潟に帰ってきた。新幹線が上野まで開通した年だった。父の会社の仕事をしながら、週一回新幹線で大学に通った。(この会社は6年前倒産した)
 このときも東京指向が強く、新潟で過ごす日々に不満を感じていた。

 しかし、また祭りで神輿を担いだり、いろいろなイベントに参加するようになってだんだん新潟が好きになっていった。
 集まる仲間もまた新潟が好きな人間が集まってきた。いつのまにか東京指向が心の中から消えていた。
 ふと思いついて昔過ごした本町を訪ねるときがある。
 多くの家が取り壊されて駐車場になっている。私の家のあった所も今では駐車場だ。(4年ほど前に売却した。)
 通りの風景はまるで変わった。よく遊んだ白山公園やその周辺も変わってしまった。
 でも、今の姿を見ながら昔を思い出すとき、見えている景色の影に思い出が染み込んでいるのが分かる。やっぱり新潟は我がふるさとで、これからもずっと住み、愛していきたい町なのである。

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