八十里越歴史談義


前年の12月に王政復古の大号令で京都に新政府を樹立した薩長は翌1月に旧幕府勢力
を鳥羽伏見で破って、江戸へ向けて進軍します。
そして、江戸では西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城無血開城が成功し、矛先は
京都守護職にあった会津藩に向けられます。

越後長岡藩は幕府の譜代の家柄で代々老中職に就いていました。
幕末ぎりぎりの段階で河井継之助の登場で、藩政改革を実施し、東北唯一の洋式軍備
を整えるまでになりました。

東北諸藩は会津への同情から奥羽列藩同盟を結成して新政府に対抗します。

会津へ向かう新政府軍は越後へ侵攻し高田についたとき越後諸藩に東北侵攻の為の出
兵か献金を要請します。しかし、長岡藩は武装中立という理想を掲げている為これを
拒否、他の諸藩は長岡にならって態度を保留します。

旧暦の五月に新政府軍は柏崎、小千谷まで侵攻し長岡に迫ります。
ここで初めて長岡藩は中立の立場を取って新政府と会津の間に立って平和裏に事を解
決しようという立場を説明すべく、小千谷の新政府軍を率いる岩村清一郎の元に河井
は向かいました。
この時、河井継之助42歳、岩村精一郎24歳(数え年)

新政府軍の総督山県狂介や黒田了介は柏崎にこの時いました。
長岡藩の不運は、良識の或る山県狂介や黒田了介が話の相手をせず、24歳の岩村が相
手だったことに始まります。

会談は決裂し、長岡藩と越後諸藩は奥羽列藩同盟に加盟(この時より奥羽越列藩同盟
になる)
新政府軍と戦うことになります。

越後諸藩は地の利を利用した戦いを各所で見せ、火力に勝る新政府軍と一進一退の攻
防を展開します。

長岡城も5月に一旦落城しますが、八丁沖という沼地を通って侵攻するという奇襲戦
法に成功し7月には再び奪還します。


しかし、7月29日に新発田藩の内応で、新潟港が陥落し敗色は濃厚になってしまいま
した。

勢いに乗る新政府軍に長岡城は再び落城、この時河井は負傷します。新潟の陥落、指
揮官の負傷で戦意を失ってしまった長岡藩軍は、会津へ落ち延びるべく八十里越を越
えていきます。

会津塩沢村(現只見町)についたとき河井は自らの死期を悟り、下僕の松蔵に棺を作
らせ、河井はそれを眺めていたといいます。そして、河井はその地でなくなります。
8月12日でした。

8月4日、村松城が陥落し、新政府軍は会津に向かって侵攻していきました。

河井継之助は八十里越を越えるとき自らの姿を自嘲して
「八十里腰抜け武士の越す峠」と歌に詠んでいます。

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