音楽に夢中だった少年時代

2005年11月23日記

 小学校5年の頃だったと思う、お年玉で1台のラジオを買った。電波を確実にキャッチするためのジャイロアンテナがついていて、大きなスピーカーがひとつ付いているかっこいいラジオだった。
 私は家を改築して与えられた自室で毎日ラジオにかじりついていた。
 時代は70年代、フォークソング全盛の時代だ。毎日拓郎や陽水、かぐや姫の曲がラジオから流れていた。DJがリスナーのハガキを読み、曲を流して番組が進行していく、独特の世界がラジオの中にあった。
 小学校の文集に将来の夢はフォーク歌手、そして、ラジオでDJをやることなんて書いていた。
 
 中学に上がり必修クラブでフォークソングクラブを選んだ。ギターが弾ける先輩がかっこよかった。
 私もお年玉で安いギターを買ってすぐに練習をした。学校から帰れば夢中になって練習していた。指に血豆が出来てもかまわずに弾いていた。
 必修クラブのある火曜日はギターを持って学校に行く、ギターを買った仲間は多かったが、大半は挫折していたので、休み時間にはみんなの前で流行のNSPの曲をよく弾いて聞かせていた。
 声変わりの年頃でもあった。高い声域を失うのがいやで、毎日発声練習をして声変わりしても高い声が出続けるように努力していた。

 中学3年の時、文化祭でチューリップの曲をやろうということになった。でも、仲間全員はギター以外の楽器は弾けない。メンバー4人いた中で、自宅にピアノがある私がピアノを担当し、ギターの下手なやつにベースを買わせてベースを担当させた。ドラム無しだったが仕方ないだろうと思っていた。文化祭まで1ヶ月、鍵盤のどこを押せばどの音が出るかわかる程度の知識でピアノの猛練習が始まった。私は慣れないピアノを弾きながら歌うことになっていた。
 下校後9時頃までは仲間の家でバンドの練習、それから深夜まで近所のことなど考えずにピアノを弾きつづけた。
 文化祭当日朝早く学校に行った。まだ玄関は開いていなかったが、カギを掛け忘れた窓から忍び込んで早朝練習をしていた。早出の先生がやってきて怒られた。クラスメイトが用意した花束や紙テープは没収され、借りてきた音響機材は使用をとめられた。
 われわれが忍び込んだことで職員会議が開かれた。戸締りはしたという用務員さんの主張が認められ、我々はカギを壊しては忍び込んだ事になっていた。当時から私は世渡りが下手だった。
 結局我々の処分は4曲予定のところ1曲減らされたことで演奏は許可された。音響機材はボーカルマイクだけ使用を認められた。
 演奏はひどかったと思う。でも、クラスメイトは拍手と歓声で盛り上げてくれた。
 文化祭終了後もピアノは練習し続けた。昼休みや放課後の音楽室は私のステージとなっていた。
 
 高校時代も引き続き音楽に夢中になっていたが、バンドのメンバーが集まらずバンドは組めなかった。高校一年のとき、親に借金してコンボオルガンを買って自宅の部屋にピアノとオルガンを並べて置いてひとりで弾きながらオリジナル曲をつくり、デモテープを作っては仲間に聞かせたりコンテストに応募していたりしていた。

 大学は関東の大学に進学した。私はすぐにフォークソングクラブの門をたたいた。
 フォークソングクラブとはいえ、フォークの時代は過ぎ、ロック主体の活動をしていた。
 私はボーカル&キーボード志望で練習を開始し、秋に晴れてバンドを組んで活動を開始した。61鍵のシンセサイザーを買って6畳一間の部屋にコンボオルガンとシンセサイザーが巾を聞かせていた。
 キーボードのメンバーは希少価値なので私はいくつものバンド掛け持ちでやっていたため忙しく、当初はやりたい音楽がなかなか出来なかった。しかし、その後バンドを整理し、2年になるときには自分がリーダーでボーカルを取れるバンドを結成することが出来た。
 バンド活動は楽しかった。サークルで2ヶ月に1回発表する機会が与えられる。教室を借りたり、中庭で演奏したり、観客は少なかったが機会があるというのは嬉しいものだ。
 オリジナル曲も作りはじめた。
 曲が出来るとバンドのリードギターのメンバーを呼んで下宿で二人で大まかなアレンジをし、その後、部室でバンド全員でアレンジをする。小節割した歌詞カードにコードを書いただけの譜面を渡し、歌って聞かせアレンジの構想を話してそれだけの課題でメンバーは独自に自分のセンスで肉付けをしていく。出来上がっても気に入らないと、「やっぱ違う」といって最初からやり直す。そうやって曲を作っていった。
 やがて学内だけの活動だけでは満足しなくなっていた。
 当時ヤマハがアマチュアバンドのコンテストを開催しており、我々も応募した。しかし、結果は2次予選で敗退。
 とりあえずレコード出した先輩が新宿のライブハウスでライブをするというので、前座に出させてもらったこともあった。(メインのバンドではなかったが)
 バイト仲間の紹介で、プロを目指しているフリーターのメンバーと一緒にバンドをやっていたこともあったが、こちらは練習だけで終わってしまった。ボーカルの女の子は歌唱力ルックスとも良かったので、我々とやらないで独自の活動をしていれば、プロになったかもなんて思ったが、彼女はその後どうしただろう。
 3年の夏のコンサートで一旦クラブの活動は停止、みな就職活動を開始し始めた。
 しかし、私は就職活動なんてする気はなかった。卒業さえも危うい状態なのだ。
 メンバーが離れてしまうとやることがない。
 翌年、4年の12月のコンサートは4年生のサヨナラコンサートだ。コンサートが近づくと久しぶりにメンバーが集まっての練習が始まった。
 昨年までみな長髪だったのに、就職活動をしていない私以外はみなリクルートカット。
 コンサート前日のリハーサルは大学の教室を借りて遅くまでやっていた。
 4年全員がステージに上がって歌うコーナーになったとき、涙がこみ上げて止まらなかった。ザサンオールスターズの「YaYa(あの時を忘れない)」を歌わなければならないのだが声にならない。
 4年も後輩も多くのメンバーが一緒に泣いた。思い出が頭の中を駆け巡って涙となってあふれたという感じだった。


大学時代のコンサートでキーボードを弾きながら歌っている私

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