らくだの窓沢にて

救助を待っている間

2006年12月2日記

 2006年10月15日の御神楽岳、らくだの窓沢での事故に際して、事故発生から救助を待っている間に、私がしたことやその時の心理などを、記憶が薄れないうちに記しておきたくなりました。

 中間支点用に打ったボルトに通したシュリンゲに右足をかけて、次のホールドを探していた。ふと見ると足元のボルトが抜けかかっている。左足は岩壁に摩擦だけで立っていたが、そちらに体重をかけ、右足をシュリンゲからはずしてスメアで立った。手はしっかりしたホールドを掴んでいなく、縦のホールドを体を左に振って両手で掴んでいる状態だった。
 両足をすりあげて次のホールドを探すが、左手で指一本掛けられる程度のホールドがあるのみ。すぐに腕がこらえきれずに落下した。
 落下点のすぐ下のバンドに足を打ち、そこで体が反転して頭が下になりそのまま落ち続けた。
 落ちている時間は1秒もないと思うが、落ちながら体を立て直す事を考え、ボルトを打つ前に支点を取った2本の残置ハーケンからの距離を思い出し、確保しているふうたさんなら止められる、そろそろ止まる頃か・・・・と、瞬時にこれだけのことが頭をめぐった。落ちている間の景色の流れも見えていた。
 基部のテラスより5mほど上で宙吊りになった。
 「おーい、降ろしてくれ」
 「ちょっと待って、手が痛い」
 私の体重70kg+ザックの重さと落下の衝撃、ATCを使っているとはいえ、ロープを握る手には相当な衝撃が走っただろう。
 ロアーダウンで降ろしてもらい。ロープを解いた。

 落下のショックはあったが、事故者が事故直後に見せるような震えは全くなかったので、自分は案外冷静だと思った。
 左足かかとに激痛が走っていた。打撲だと思った。右足も深い擦り傷を負っている。残念だがこれ以上登るのは無理だと思い、ふうたさんにその旨伝えた。
 まずは傷の手当、ザックから医療道具を出して自分で手当てしようとしたら、ふうたさんが取り上げてやってくれた。右足の擦り傷は消毒薬をかけて、滅菌ガーゼをテーピングテープで固定した。左足は足首が動かないように、テーピングしてもらった。
 立ち上がろうとするが激痛が走ね。特に左足の痛みはひどい、鎮痛剤を飲んで痛みを和らげ、ゆっくり下山することにしよう。
 ふうたさんが「とにかく何か食え」とやたらと食物を目の前に出す。まだショックが収まらず食べ物が喉を通るような状況じゃなかったが、とりあえず水をもらって握り飯を食べ始めた。
 少し気持ちが落ち着いてきた。少し腹にものを入れてから、持ってきた鎮痛剤を飲む。
 鎮痛剤が効くまでは、少し休憩だ。
 左足はかなり痛いので、できるだけ左足を使わないで下山しよう。懸垂下降を多用すればできるだろう。
 少し時間が経ってから立ち上がろうとしたが、やはりり無理だった。骨をやられているかもしれないとこの時初めて思った。
 「救助を呼ぶしかない」
 すぐに携帯を取り出すが、圏外。
 「悪いけど、一人で下山して救助を呼んでくれ」
 しかし、居るところは2畳くらいの広さのテラス、少し広いところに移動するかと話し合うが、それも無理そうだ。
 「この場で待つしかないな・・・・」
 持ってきた地形図に現在地を記して彼に渡した。
 そして、下山したら警察と会の会長に連絡、そして、私の家族への連絡を託して下山してもらった。
 2本のロープとありったけのシュリンゲなどを持ってふうたさんは下っていった。
 すぐ下で最初の懸垂下降のロープをセットしているとき、
 「出合まで降りたら笛鳴らしてくれ」
 「聞こえるかな」
 「広谷川の沢音がよく聞こえるから、たぶん聞こえると思う、頼むさ」
 「OK」
 「気をつけて」
まるで「走れメロス」だと心の中でつぶやいた。
 

 ふうたさんはありったけの食料を置いていってくれた。いざとなれば一晩このテラスで明かさなければならない。防寒用に長袖のアンダーシャツと自らの雨具まで置いていってくれた。長袖のアンダーシャツは暖かい。その上に雨具を2枚も着たら暑い位になった。よって雨具の1枚はすぐに脱いだ。
 考えてみるともし2次遭難になったら、ふうたさんの方がやばい、ありったけの食料を置いていってもらうのはよくなかったと後で反省した。
 救助までの時間を逆算した。ふうたさんが出合に下りるのに1時間、そこから登山口まで1時間、登山口から津川警察まで30分〜1時間。ヘリはそれからさらに1時間かかるとして、下山開始がだいたい11時頃だったから、へりの到着は早くて3時か・・・・まだ、先が長いな。
 テラスはわずかに流れる滝の水を受け止め、さらに左にかすかにわいている清水の水も受け止めて濡れていた。その上にツェルトを敷いて座っていたが、使い込んだツェルトを通して尻が濡れてきたので、テラスの縁に体を移動した。
 しかし、痛めた足をかばって誤って落ちてしまわないように、登攀前に打ち込んだボルトに補助ロープをつないで体を確保した。
 携帯で再度救助を呼ぼうと試みた。圏外の表示が点いたり消えたりしたが、やはりつながらなかった。何度も試したがだめだった。
 テラスに落ちている落ち葉や小枝を集めてスイスメタを使って火を起こそうとした。しかし、濡れた葉っぱや小枝には火は点かなかった。火は諦めた。
 小石を三つ拾って並べてカップを乗せて、スイスメタを使ってお茶を沸かして飲んだ。スイスメタは2ケース持っている。ビバークの時は役に立ちそうだと思った。

 落ちた滝を眺めて登るルートを探してみた。事故の原因のひとつとしてルートファインディングミスが上げられる。安易に取り付きすぎたと反省した。
 周辺の景色をカメラに収めた。今年の紅葉はあまり綺麗じゃないなと感じた。
 鳥のさえずりが聞こえていたが、どこにいるのか見えない。テラスの水溜りに時々アブが飛んできて水分補給をしている。私には向かってこない。盛夏のメジロアブとは違うようだ。
 無線機を持ってこなかったことを後悔した。登攀具だけでも相当な重さになったので、無線機を割愛したのだ。無線機があれば、それを利用してもっと早く救助を要請できたかもしれない。
 仕事のことも心配していた。ただの打撲ならいいが、骨にヒビが入っていたら厳しいなぁ。
 ふうたさんが下山開始して1時間以上過ぎていた。笛の音は聞こえない。やっぱり笛の音は水の音や風の音にかき消されてここまで届かなかったか。無事下山してくれれば良いが・・・・
 午後2時近くになって笛の音が聞こえた。小さい音だが鳥の音でも風の音でもない。こちらからも笛を鳴らして応答した。(私の笛の音は届いていなかったらしい)
 出合まで下山できれば彼は無事登山口まで行ってくれる。この笛の音はかなり勇気付けられた。

 改めてヘリが着く時間を逆算した。午後4時頃と予想した。
 急に寒くなってきた。敷いていたツェルトを体に巻き付けた。
 あと2時間どうやって時間をつぶそう。時間つぶしと今後のために手帳を取り出して記録を書き始めた。
 時間がことのほか長く感じられた。今日中の救助を信じて待っているが、場合によっては明日に回されるかもしれない。ふうたさんが間に合ったところで、限られた台数しかない救助用ヘリ、命に別状のない私が後回しになることも十分考えられた。
 それにしても寒い。先ほどまで寒さを感じなかったが、だんだん寒くてなってきた。このままでは夜は耐えられないと思った。

 午後3時半を回った頃、早ければそろそろヘリがつくころだと思い、テラスの上に広げていた食料などをザックにしまいこんだ。ただ、ツェルトは黄色で目立つのでそのまま体に巻きつけておいた。
 合図の方法にカメラのストロボを利用したということを以前本で読んだことがある。それも試してみようと考えていた。
 2回ほど航空機の音がした、しかしそれははるか上空を飛んでいた旅客機だった。
 3時50分頃、また航空機の音がした。今度は近い、よし助かった。!

 ヘリの音は山伏尾根の向こうから聞こえてくる。私を救助に来たのではないのか、なかなかこちらへ向かってこない。
 4時15分頃、尾根の岩峰の上からヘリが現れた。今度こそ助かった。
 ツェルトを振り、ストロボで合図した。ヘリはこちらに向きを変えて近づいてきた。
 ツェルトをたたみ、体を結んでいたロープを解いてザックにしまった。
 こんな岩壁の途中にうまく近づけるかと心配したが、パイロットの腕は確かだった。すぐ近くにホバーリングして、私のいるすぐそばにレスキュー隊員を降ろした。ヘリの起こす風で周囲の葉っぱがみんな飛んでしまった。
 「吉田さんですか?」
 「はい、そうです」
ヘリから救助用のハーネスが降りてきたて、その中に体を横たえ吊り上げられた。回転しながら上がっていった。横目でらくだの窓沢を眺めていた。
 右足でヘリの床を捉えて引き寄せて機内に入った。
 次に私のザック、そして、レスキュー隊員がヘリに乗り込んだ。
 
 ヘリの機内は爆音でうるさかったが精一杯の大声で「助けていただいてありがとうございます」と叫んだ。
 機内から見る御神楽の東壁は険しかったが美しかった。
 日が傾きかけていた。粟ケ岳の向こうに弥彦山が見え、その向こうに日本海が見えた。
 
 津川の常滑川の河川敷公園で下ろされて、救急車に乗り換えた。
 左足に応急のギブスを当てられ、体温と血圧を測った。血圧計は病院に着くまでそのままだった。
 あとは救急車の車内の天井を見ながら、新潟の病院に向かうだけ。
 車内でふうたさんに連絡をいれ、自宅にも電話をした。
 足は痛かったが、車内で救急隊員と話をしていた。
 18時頃病院に着いた。看護師から「病院に着きましたよ」と声を掛けられたら、緊張の糸が切れたのか、左足の痛みがどっと増した。
 痛みをこらえながら、生きている喜びを実感していた。

 ※左足踵は骨折していた。その後、2週間入院した。

救助を待っている場所から見ていた風景。

らくだの窓沢の登攀記録 

骨折治療、入院〜手術

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