なぜ山に登るのか、それは、山への信仰心から?

  「なぜ山に登るのか」と問われ、昔あるアルピニストが言ったそうだ。
  「そこに山があるからだ」
  この言葉は山に登る人なら誰が言った言葉かは分からないにせよ、ほとん
どの方が知っている言葉だろう。
  しかし、私自身これと同じような質問をよくされる。
  「なんでそんなに辛い思いをしてまで山に登るのか」
  山登りを知らない多くの人は、我々のようなただ山に登るだけの為に山に登
る人が不思議で仕方がないらしい。
  しかし、このての質問は答える側としても返答に困る質問である。なぜなら
山に登ること自体が楽しいのであって、それ以外に理由が見当たらないからだ。
  健康の為、きれいな花を見る為、雄大な景色を見る為、このような答えをす
る人もいるが、この理由は主な理由ではなく、おそらく山に登る副産物的な理
由だろう。
  それなら、なぜ山に登ること自体が楽しいのか。私は最近一つの理由を考え
るようになった。
  「それは日本人の魂がそう思わせるのだ」
  
  我々の祖先がまだ狩猟によって生活していた頃、当然の事ながら山はその狩
猟の舞台であり生活の場だった。
  農耕を覚えて里で暮らすようになってからも、山から切り出した木で家を
作り、木は燃料となり、農耕によって得られない栄養源を山の動植物に求めた。
  山林の肥沃な腐葉土は田畑の肥料になった。
  当然の事ながら民の共有の財産である山に掟を設ける必要が生じ、そこに神
が存在するとして山を守った。
  その頃は生活に密着した里に近い低山が信仰の対象であった。奈良の三輪山
や越後の弥彦山がその代表であろう。
  ある日、信仰心の厚い勇敢な若者が現れて、遥か彼方に見える山に登り神に
触れようと考え、行動を起こした。
  今日の我々とは違い、それは命を懸けての勇敢な行動だったに違いない。
  もちろん車はないので家を出るときから自分の足が頼りだ、地図やコンパス
もない、食料はすべて現地調達だったろう、木の実や草の根、獣や魚を捕りな
がらの行動だったに違いない。
  何度も何度も彼は失敗した。登った山が目指す山とは違う山だったり、大き
な滝に行く手を阻まれたり。
  しかし、彼はくじけずにようやく目指す山の頂に立った。その時の感動は現
代の我々の山頂に立ったときの感動とは比べ物にならないくらいの大きな感動
だったに違いない。
  その感動を彼はおそらく神が下さった奇跡と思ったに違いない。そして、里
に帰った若者はあの山に登れば奇跡が得られると里の人に言って回った。
  山岳信仰はこのようにして始まったのではないだろうか。
  私が山に登るのは、このような祖先の魂が心の中に生きているからだと思う
ようになっている。

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