山の名前を冠した県

2003年11月12日記

 岩手県。
 この県名が岩手山の山名に由来するのではないかと想像した事からこの話は始まる。
 調べてすぐ、県名は山の名前ではなく、旧来からの盛岡付近の郡名の岩手郡から来ているものと分かった。しかし、県庁所在地の都市の名前を県名としていないのは、戊辰戦争で新政府に反抗した事に対する新政府への恭順に意思の現れのようだった。
 岩手県のみならず、県庁所在地の名前を県名にしていないところの多くは、戊辰戦争で新政府に対抗したり、幕末反薩長の立場にあった県が多いのだ。
 ちなみに岩手の名前の由来は昔話の宝庫の国らしく、鬼退治の伝説に由来するようだ。

 江戸時代、この辺り一帯は南部藩の領地だった。南部藩は地理的要因から幕末の騒乱には参加せず、戊辰の時に近隣の米沢藩や仙台藩に誘われて会津藩を救済すべく奥羽列藩同盟に加盟した。そして、いち早く新政府側に付いた隣の秋田藩に出兵した。
 しかし、会津藩が降伏するや同盟の中心的存在だった米沢藩や仙台藩はすぐに降伏してしまい。近隣に義理立てしただけに過ぎない南部藩は取り残されてしまった。結局藩として最後まで新政府に対抗したのは南部藩であり、会津藩と並び「朝敵」の汚名を着せられて降伏するのである。
 新政府の南部藩に対する処置は会津藩同様、減封・転封と言う厳しいものであり、さらに大金の献納を強いられた。結果、南部藩は困窮する。
 幕末中央政界の騒乱に参加していないのに義理立ての為に苦しい立場に追いやられることは、平安末期にこの地域を支配していた奥州藤原氏の滅亡と重ねて見ずにはいられない。
 奥州藤原氏は源平の争乱の頃、源氏、平氏どちらにも付かずに奥州の地から争乱を静観していた。
 やがて、源氏が勝ち鎌倉に新しく武士政権として鎌倉幕府が興るが、この幕府から追われている源義経をかばい、幕府によって攻め滅ぼされている。
 明治の話に戻る。
 全国的に廃藩置県が行われる1年前の明治3年。南部藩は全国に先立って廃藩置県を行い、盛岡県として出発するが、2年後に新政府への配慮から岩手県に名前を変更、その後、数回の境界変更を経て現在の岩手県になったらしい。
 最後まで新政府に対抗した藩は最初に県として出発する辺りに当時の困窮ぶりが窺い知れる。

 以上のようなエピソードを思うとき、芭蕉が「奥の細道」で引用した漢詩の一節が頭に浮かぶ。
 
 「国破れて山河あり」

 自ら信じる正義のために戦ったサムライ達の戦いの跡も、何事もなかったかのように岩手山が見下ろしていることだろう。

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